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「戦う司書」と物語の力

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——失ってからその大切さに気づく。
 気づけばどこかで見聞きしているその言葉は、誰が最初に言ったのか。いざ自分の身に降りかかって自覚しない限り、他人から言われても上滑りし続ける不思議な言葉だ。
 何故なら、そこに居る(在る)のが当たり前であればあるほど、気づかないうちに人はその誰か(何か)に支えられているのだから。

 

 


 映画『42 〜世界を変えた男〜』や『ブラックパンサー』で有名なチャドウィック・ボーズマンが8/29(日本時間)に結腸がんでこの世を去った。
 多くの著名人や私がフォローしているtwitter上の友人達が彼の死を悼み、悲しんだ。
 そして、俳優である彼と共演した者、共に作品を作ったクリエイター達は彼への敬意や哀悼の意、思い出を語っている。


 我々はスクリーンの中の彼(演じた役柄も含む)やインタビュー等のメディア露出から浮かぶ彼の人柄や、スクリーン越しの彼について思いおもいに語った。
 出演作品を見返したり、逆に今は見られないと距離を置いたりする者もいた。人それぞれ、自分の人生の一部が喪失してしまったことと向き合っていた。
 失ったものが自分にとって掛け替えのない人生の一部だったと、思い知らされていた。
 私も、その一人だ。twitter上ではさほど口にはしなかったものの、今改めて書き記していると、心にぽっかりと穴が空いたような気分になる。

 

「すべての人間は、幸福になるために生まれてきたから。愛されるために生まれてきたから」
「もう一度聞く。人間とはなんだ」
「この世のすべての幸福を、得る権利のあるもの。愛し、愛され、満ち足り、苦しむことなく、至上の幸福に包まれた一生を送るもの」

——『戦う司書と恋する爆弾』より抜粋

戦う司書』は、「喪失」と「愛」をもって「物語の力」を描いた作品だ。
 折しもTVアニメを見返したため、作品の宣伝も兼ねてこのnoteを書いている。願わくば、この作品を全く知らない方々に興味を持ってもらえるように。
 では何故冒頭から作品名も上げずに無関係そうな話をしたのかというと、その方が雰囲気が出ると思ったし、実際無関係ではない。

戦う司書』の舞台となる世界では、死んだ人間の魂は一冊の「本」となってこの世に残る。
 「本」と言っても、我々のよく知る紙の束を綴じたものではない。「本」は原作のライトノベルとTVアニメでは細かな描写こそ異なるが、今でいうとiPadくらいのサイズの無地の石板だ。
 その「本」に触れると、「本」となった人物(魂)の持つ記憶——生まれてから死ぬまでの人生を体験する(読む)ことができる。
 それは主観によるものではなく、まるでその人物の人生をカメラで追いかけているかのような視点で体験する。原作小説では文字通り小説のように、TVアニメでは映像作品のように描写されている(当たり前のことだが、改めて説明すると描写されることそのものに合理的な説明がついているという奇妙な設定だ)。

 ところで私が書店でアルバイトをしていた頃、本好きの先輩が言った言葉がある。他の誰かの言葉の引用だったかもしれないが、確かこんな風なことを言っていた。

「人間は誰でも必ず一冊だけなら傑作を書くことができる。自分の人生を書けば、それが唯一無二の本になる」

 久しぶりに『戦う司書』を見たとき、私はその言葉を思い出した。まさにこの作品の世界観そのものである、と。
 人の人生にカメラを回せば、それが死を持って終わりを迎えた時、唯一無二の物語になる。
 ここで言う物語とはフィクションのことではなく、始まりがあって終わりがあるものという意味だ。人生とは物語である。

 誰かがこの世を去ってしまった時、好きだった作品が完結してしまった時、どちらにも「もう続きがない」という寂しさが残る。
 勿論人の死には悲しさがあり、作品の完結には清々しさや「もしかすると続きが作られるかもしれない」という希望が残る点で決して同列に語れる者ではない。
 私にとってチャドウィック・ボーズマンの訃報は「人の死」がもたらす悲しみと「もう彼の出演する作品は作られない」という寂しさをもたらした。
 チャドウィック・ボーズマンは死因である結腸がんのことを、公表してはいなかった。「ブラックパンサー2」を楽しみにしていた私にとって、あまりにも突然の訃報であった。事態を呑み込むことにも時間がかかってしまった。
 好きだった俳優の死は悲しい。同時に「もう彼の出演する映画は見られないのか」という喪失感に襲われた。

 いつの日か、エンリケが暮らすどこかの街に、年に何度かの息災の便りが届くならば、それ以上は何も望まない。それでいいと思っていた。
 望みがすぎれば、裏切られる。多くを望んではいけないと、エンリケは思っていた。
 だが、それすらも、贅沢すぎるなら、自分は一体何を望めばいい。

——『戦う司書と荒縄の姫君』より抜粋

 シリーズ六作目の『戦う司書と荒縄の姫君』は、エンリケという男が、親しかった友人の「本」を読み、その人物の生き様に思いを馳せ、報いようとする物語である。
 「本」を読むことでその友人がもうこの世に存在しないことと向き合い、それでも生きていく姿が描かれる。

 失ってからその大切さに気づく——当たり前だ。喪失感は、失わないと得られない。
 その友人の喪失に対し、「本」をエンリケは友人の思いに報いることで向き合った。友人が愛したものを愛するために生きようとした。
 私もチャドウィック・ボーズマンの喪失とは、彼が愛したものを愛することで向き合う。彼が何を愛したか、彼の「本」を読めない以上それは断片的な情報から想像することしかできない。ある意味『戦う司書』の世界は私達の生きる世界より、優しいのかもしれない。

 でも、たとえチャドウィック・ボーズマンの想いを真に知ることはできなくても、私は「ブラックパンサー」という映画を愛し続けるだろう。彼にとっての人生の一部、私にとってはそれだけしかない"繋がり"を愛するだろう。
 愛するものを増やすことで、彼のいなくなった世界を少しでも明るくして生きると決めた。私にそうさせるだけの力が、チャドウィック・ボーズマンにはあった。
 そう。力がある。人生には、物語には、力があるのだ。
 

 ずっと、遠くにいると思っていた。手の届かないどこかにいると思っていた。
 コリオが何をしても、コリオが何を言っても、届かないところにいると思っていた。
 そうじゃない。あの子はここにいた。
 コリオのことを見ていた。
 コリオとともに生きていた。
——『戦う司書と恋する爆弾』より抜粋

 

 シリーズ一作目の『戦う司書と恋する爆弾』は、それまでの記憶を奪われ洗脳を受け、"ある人物"を殺すためだけに体内に爆弾を抱えた少年コリオが、一人の少女の「本」の欠片と出会うことで始まる。
 「本」は石板なので、砕けることもある。砕けた「本」の欠片は、その者の人生の一部だけを読むことができる。
 コリオはその少女の「本」の欠片を集めていくうちに、自分の中に生まれ出でた感情に気づき、何をするべきか自分で考え、行動に移していく……という筋書きだ。
 タイトルの時点でお分かりの通りだが、コリオはその少女に恋をする。死んだ人間に恋をする。人を愛することで、自分自身を取り戻していく。
 ただし、その少女は既に「本」となっているためこの世には存在しない。スクリーンの向こう側よりも、ずっと遠いところにいる。
 それでも少女の「本」が、物語が、一人の少年に力を与えるのだ。どう生きるかを決めるだけの力を。
戦う司書』は、「物語の力」に溢れている。

 話は変わるが、私は映画を見るのが好きだ。物語の力を感じる映画は、特に好きだ。
 いわゆる劇中劇と呼ばれるような作中で語られる物語が登場人物の心を救済するような物語が好きだ。


 「ザ・フォール 落下の王国」では、足を負傷し半身不随となったスタントマンの主人公が、自殺を目論むために同じ病院に入院していた少女に作り話を話す。
「続きを聞きたかったら薬をとってきておくれ」と少女を言いくるめるのだが、悲しい結末で終わるはずだった「愛と復讐の物語」はいつの間にか少女に希望を与え、やがて主人公すらも感化されていく。

「心が叫びたがっているんだ」では、幼い頃の過ちから着想を得た物語をベースにしたミュージカルを演じることで自分を変えようともがく少女と、同年代の男女計4人の群像劇が描かれる。言い方次第で容易に人を傷つける言葉の危うさと、逆に何も言わずにいる息苦しさとの間で揺れる少年少女達がミュージカルを演じることで世界の優しさに触れる。

 勿論、「物語の力」は必ずしもいい方向にばかり作用するとは限らない。
「スケアリーストーリーズ 怖い本」では、物語の核心に触れてしまう&比較的近年の映画なのでネタバレを避けたいので詳しくは言えないが「このような物語があった」という前提がもたらす負の側面が描かれている。

 

「モッカニアを繰るために、俺は生きていた。ある意味で俺は、モッカニアのために生きていた」

——『戦う司書と黒蟻の迷宮』より抜粋


 話を『戦う司書』に戻そう。
 シリーズ三作目の『戦う司書と黒蟻の迷宮』は、この作品の敵組織に相当する「神溺教団」という存在が「物語の力」を利用して主人公達と戦う作品となっている。
 簡単に説明すると、主人公側の超強力な味方、モッカニアという青年(クソ強い)に反乱を起こさせて内部崩壊を狙う話なのだが、その策略を成功させるための下準備で「神溺教団」はある一人の人間——ウィンケニーに「モッカニアの天敵となるためだけの人生」を歩ませている。
 ここで重要なのは、ウィンケニーはモッカニアの天敵となるために力をつけた訳ではない。モッカニアの天敵となるための人生を歩んだのだ。それがどういうことを意味するのかは、是非その目で確かめていただきたい。

 

「…………楽園じゃなくてもいい。幸せじゃなくてもいい。どんなに悲しいことがあっても、その思い一つあれば、乗り越えられる。その思いを抱えて生きていける。
 …………そんな思いが存在することを、知ってしまったのです」

——『戦う司書と世界の力』より抜粋


 ——人生山あり谷あり
 ここでは「良いことも悪いこともある」という意味で使わせていただく。その方が、人生を物語に置き換えてもしっくりくるからだ。
 とはいえ、この言葉も他人から言われたところで大して響かない。でも心のどこかで決して否定はできない。そんな言葉。

戦う司書』は「物語の力」を信じている。
「物語の力」とはすなわち人生の持つ力だ。人生は良いことも悪いこともある。そしておそらく、人は悪いことの方が記憶に残るし、多いものだと感じる。
 降りかかる悪いことを、数少ない良いことで相殺するのはきっと難しい。
 だから、何かを愛する。誰かを愛する。愛することで、向き合う。乗り越える。
 自分が何かや誰かに愛されていると自覚するのはなかなかできることじゃないから、愛することで生きていく。
 生きることが物語を紡ぐことになり、それが自分の、または誰かの力になる。
戦う司書』は、そういう作品だ。「喪失」と「愛」を繰り返しながら「物語の力」の証明をし続ける、私の愛する作品の一つである。

 

 最後に、この場を借りてチャドウィック・ボーズマンのご冥福をお祈りします。